シュテファン・フライ著
「涙の中に笑いあり」 ― エメリヒ・カールマーンの
オペレッタ的伝記
STEFAN FREY
»Unter Tränen lachen« EMMERICH KÁLMÁN
Eine Operettenbiografie. Henschel Verlag, Berlin 2003
すでに70年以上前になりますが、20世紀前半は私の父母や祖父母の青年期・壮年期です。それはどのような時代で、彼らの楽しみや娯楽は何だったのでしょうか。私もそんなことが気になる歳になったのですね。
私が幼かったころは祖父母も生きていましたから、不十分であっても、直接本人の口から生の情報を聞くことができました。祖父母の村はとりわけ貧しくも豊かでもなかったと思いますが、楽しみはそれなりに存在したようです。正確には、冠婚葬祭はもちろんあらゆる機会をとらえて村人たちは楽しんだ ― さらに言えば、楽しみを見い出すためにさまざまな工夫をした、ということらしい。
たとえば葬式。人が集まって料理が出たりしますから、子どもにとっては(不謹慎かもしれませんが)娯楽の1つ。また、小学校の運動会が雨で中止になり、楽しみが奪われてケシカラン、と校長室に怒鳴り込んだ猛者もいたそうです。そのうちにラジオも普及したでしょうし、町に出て映画も見たでしょう。大きな町の芝居小屋や寄席を訪ねたのかもしれません。楽しみはいつでもどこでも、何らかの形で人間には必要なもののようです。
するともっと気になることがらが出てきました。私はドイツ語圏に関わる仕事をしてきたので、ドイツやオーストリアにも興味があります。彼の地の20世紀前半の庶民は何を楽しみにしていたのか、村の様子は分からなくても、都市の娯楽はどうだったのでしょう。にわかに疑問がわいてきました。もちろん書物にでもネット上にでも記事が存在していれば、それを読むとコトは済みます。しかし残念ながら、現在の私の情報収集範囲ではピンと来る話には出会いませんでした。私の恩師はなかなかの情報通でしたが、とうに亡くなっておられます。
ところが先頃、おもしろい本を読みました。舞台は世紀末から20世紀前半のウィーン。相次ぐ外交的失敗と敗戦でハプスブルク家の支配が揺らぎ、支配下諸民族の意識の高まりに対応できず、体制は第1次大戦で崩壊。同じ敗戦国ドイツではやがてナチスを率いるヒトラーが独裁者となり、オーストリアを併合(1938年3月)。これから紹介しようとするのは、そんな世界に生きた、大衆娯楽の代表であるオペレッタ作曲家エメリヒ・カールマーン(1882~1953年)の伝記です。
読書家の皆さんは、シュテファン・ツヴァイクの『昨日の世界』やカール・クラウスの『人類最期の日々』をお読みになったかもしれません。これらの著作に描かれた世界を、これから紹介する本の著者シュテファン・フライは、エンタメ業界の視点から語ってくれます。ただし大都会の娯楽に限定されますが。
『カールマーンのオペレッタ的伝記』の紹介
書評ではありません
ただいま申しましたとおり、今からのお話は本の〈紹介〉であって〈書評〉ではありません。〈書評〉とは、ある書物の内容を紹介しつつ論評するもの。それは、当該書物の取り扱う分野を熟知し、関連文献にまで広く目配りしている才能のわざであり、音楽学にも演劇学にも縁がなく、オペレッタを劇場では数回しか見たことがない菲才の、よくなしうるところではありません。これだけはあらかじめお断わりしておきます。
どうやってこの本にたどり着いたのか? ― 「ジプシー首座司教」?
あるときヒマに任せて××tubeをのぞいていたところ、楽しげなワルツが聞こえてきました。はて作曲者は?そこには「エメリヒ・カールマーン」とありました。さらに、オペレッタZigeunerprimasの中の曲であると記されていました。それではZigeunerprimasとは何か。ある本には「ジプシー首座司教」とありました。
- 〈ジプシー〉よりも〈ロマ〉と呼ぶべき、という議論の存在は承知していますが、自分たちを〈ロマ〉と呼んで欲しくないと主張する人々もいるとのことで、ここでは〈ジプシー〉を使わせてください。ヨハン・シュトラウス・息子には、〈ジプシー〉が登場し、その名称を冠したオペレッタがありますが、作曲家は差別的ではなく、むしろロマンチックな肯定的存在として扱っています。ただし、例えばレハールの場合は、差別的ニュアンスがあるのはご存じのとおり。
はて面妖な!〈首座司教〉とはカトリック聖職者の高位役職の1つですから、ジプシーがカトリックに改宗するのはありうるとして、〈首座司教〉にまで登りつめるとは思えません。これは、原題Zigeunerprimasの前半部Zigeuner「ジプシー」はよいのですが、後半部のPrimasを誤解したのでしょう。本来は「最上位の」という形容詞で〈首座司教〉の意味もありますが、Zigeunerprimasと1語になると、「ジプシー楽団のリーダー/楽士長(=バイオリンの名手)」の意味です。
知ったかぶりはこの辺でやめておきます。このような訳語が出てきてしまう理由は、作曲家カールマーンおよび彼の作品が世にそれほど知られていないから、としか考えられません ― 誤解語訳はどこにでもあり、目くじらを立てるほどのことではありません。かく申す私も作曲家についてほとんど知らないことに気づいて調べ始めたのですが、なかなかまとまった文献が見つからない。やっと探しあてたのが、これから紹介する本です。
もちろん本 ― 伝記です ― を1冊読んだだけで(漱石流にいえば)「多年の疑団は一度に氷解、漆桶を抜くが如く痛快なる悟り」を得られるわけもありません。生まれ育った環境と作品の質との間に、直接の関連性は存在しないでしょう。とはいえ、(私のような人間には)ゴシップは楽しいですし、作者の実生活から作品を眺めるのも愉快な体験です。その意味でこの本はおもしろい。取り上げられている人物カールマーンの人生自体が興味深いうえに、著者フライが(ドイツ系の学者としては珍しく)読ませる工夫をしています。
そのような本ですので、簡単に読めると思ったのが大間違い。自分の記憶力減退に愕然としました。しかたがないので、訳文を作ってメモを取りながら読みました。読み終わってから前のメモをひっくり返してみると、これが結構おもしろい。翻訳も出ていないようですので、メモと私の感想をいくつか紹介いたします。この紹介は、そのレベルであるとお考えください。
あらかじめ3点
紹介に入る前に、あらかじめ確認しておきたいのが〈世界大戦の時代〉〈ユダヤ人〉〈オペレッタ〉の3点です ― というか、それらについて私の知識は表面的に過ぎませんが、この書物紹介にはキーワードのように何回も出てきますよ、と言いたいだけです。それにしても、しばしお付き合いください。
〈世界大戦の時代〉
カールマーンはユダヤ人、生まれたのは1882年10月24日、この年この月の21日に東京専門学校(早稲田大学の前身)が開校しています。さかのぼると同月10日には日本銀行が開業しました。この年(明治15年)に生まれ文化方面で活躍した日本人としては、金田一京助(~1971)や斎藤茂吉(~1953)が有名でしょう。とくに斎藤茂吉とカールマーンは、生没年が重なります。
カールマーンは2度の世界大戦を経験しました(従軍はしていません)。世界大戦で最も怖いのは、これだけの惨状を2度も体験しながら、人類がそこからほとんど何も学んでいない点でしょうね。第3次世界大戦を望んでいるのではないか、と疑いたくなる指導者は少なくありません。
それはそうとして、第1次大戦の前に〈世紀末ウィーン〉(ウィーン版〈ベル・エポック〉)があり、ユダヤ人の活躍が目立ちます。第1次大戦後、カールマーンの国〈オーストリア=ハンガリー二重君主国〉は崩壊、ヨーロッパはそれまでの地位をアメリカ合衆国に譲ります。アメリカの〈狂乱の20年代〉はヨーロッパにも影響を及ばし、さまざまなアメリカ音楽、そして大不況までヨーロッパに持ち込まれました。先述のとおりヒトラー登場とオーストリア併合、第2次世界大戦を迎えることになります。
- 〈二重君主国〉?見慣れない方がいらっしゃるかもしれません。1867年「アウスグライヒ」(〈妥協〉〈和協〉等々さまざまな訳語あり)締結以来、オーストリア帝国とハンガリー王国は、2つの国でありながら1つの国であるという体制下にあって、これを〈二重君主国〉(さまざまな訳語あり)と称します。オーストリア皇帝とハンガリー国王は同一人物で、それはハプスブルク家当主と決められました。
- 先述の『昨日の世界』には、ウィーン世紀末文化のかなりの部分がユダヤ人の貢献であると書いてあります。著者ツヴァイク(カールマーンより1歳年長、ウィーン生まれ)自身がユダヤ人ですのでひいき目があるかもしれませんが、この時代に活躍したそうそうたるメンバーを見ると、ツヴァイクのことばを否定するのはむずかしそうです。そしてカールマーンとの関連では、この時代のウィーンオペレッタの作者たちはユダヤ人たちでした。
〈ユダヤ人〉
ヒトラー率いるナチスは、合併したオーストリアでもユダヤ人を迫害したことはご存じでしょう。ユダヤ人カールマーンは亡命してアメリカに落ち着きます。もちろんナチスによるユダヤ人迫害が、最初の迫害ではありません(最後の迫害であることを切望します)。ポグロム(ユダヤ人集団的迫害)という単語がロシア語起源であることからも想像できるように、迫害はドイツだけの問題ではありません。19世紀後半から20世紀にかけてのロシアにおけるポグロムも悲惨な結果を生み、外国に逃れたユダヤ人たちが、後の世界情勢に大きな影響を及ぼしたのも周知のとおりです。
- かつて私は、あるアメリカ人に紹介されました。彼の名前をうかがって、「たいそう由緒正しいお名前ですね」とご本人に言うと、「私の姉妹の名前もすべて古いですよ」との返事で、旧約聖書の井戸で水を汲んでいるような女性の名前を挙げてくれました。信仰に忠実なユダヤ人のご一家なのでしょう。非ユダヤ人から見ると、おそらくそのあたりが原因で、ユダヤ人は閉鎖的で排他的であると感じられてしまうのかもしれません。私に紹介された人物は心の広い完璧な紳士であり、閉鎖的排他的等の気配は微塵も感じられなかったのはもちろんです。
- 暴力を振るったり、果ては殺害したり、露骨にユダヤ人を迫害した時代ばかりではありません。ユダヤ人(の一部)が権力者により庇護された時代もありました。ただしこの庇護は、キリスト教徒には宗教的に禁じられている職業をユダヤ人に押しつけた結果あるいは代償ですし、その庇護ゆえに非ユダヤ人からの反感がいっそう高まったのかもしれません。啓蒙主義は、彼らをそれまでの被差別状態から解放しようとします。ただしそれは、ユダヤ人の周囲への同化運動として現われることが多いようです。もちろんユダヤ人に対する好意から出たのでしょう。しかし、従来の信仰や慣習や名前まで取り上げて周囲と同化させるのが、ユダヤ人たちの真の幸福につながるのか、あるいは余計なお世話なのか。判断は分かれます。そしてもちろん、現代の私たちもどこかで余計なお世話をしている可能性があります。悩ましいところです。
- カールマーンとは直接関係ありませんが、19世紀末の東欧ユダヤ人について、大津留厚「ガリツィア・ユダヤ人のアメリカ」(所収:『近代ヨーロッパの探求①移民』ミネルヴァ書房、1998年)を興味深く読ませてもらいました。作曲家の妻ヴェーラの一家は、おそらくロシアからの難民の一員でしょうが、東欧と無関係とは言えません。
- ナチスによるユダヤ人迫害(〈ユダヤ人抹殺〉がより正確かもしれません)は徹底しています。『世界大百科事典』(平凡社)によると、本人が「ユダヤ教徒だけではなく,たとえユダヤ教を捨てていてもその祖父母4人のうち3人がユダヤ教徒であった者は〈完全ユダヤ人〉とみな」されました。恣意的に決められた、本人にはどうにもならない基準により人の生死を決めてしまうとは、恐ろしいことです。
- もっと恐ろしいと思うのは、差違をことさらに言い立てて、それを迫害の材料とする衝動が未だ人の心に残っていることです。そしてどうしてもやりきれないのは、いかに不合理であっても、差違を大きく言い立てれば言い立てるほど、迫害を徹底し残虐であればあるほど、過激になればなるほど人々の支持が得られるという傾向があることです。人間はそのような不合理な存在ではない、とお考えですか?1960年代から70年代に学生生活を過ごしたものとして、私は楽観的になれません。
〈オペレッタ〉
いくつかの習作を除いて、カールマーンの主要作品はすべてオペレッタです。そうするとオペレッタとは何かと問われそうですが、これに答えるのは、少なくとも私にはむずかしい。20年前のドイツの音楽事典(MGG)の当該項目の冒頭には、要約すると〈オペレッタの様式的および歴史的に厳密な定義は不可能〉と書いてあります(とか何とか言っておいて、その後に小さな本にまとめられるほど膨大な記述が続くのですが、これがドイツ系学者の悪いクセです。辞書を編纂させると、適当なところで切り上げるという常識が足りないのか、果てしない議論を続けるという悪癖があります。そもそも彼らにはバランス感覚が欠如し…閑話休題)。〈オペレッタとは、オーケストラによる歌芝居、セリフ、歌、流行のリズムによるダンスなどが盛り込まれた大衆娯楽作品、1850年から1950年に、ヨーロッパの大都市(パリ、ウィーン、ロンドン、ベルリン等)で成功〉などが無難な定義でしょう。ただし大衆娯楽作品であっても、王侯貴族が好まなかったというわけではありません。ウィーンでは皇帝までが好んだようです。
「オペレッタとは〈小さいオペラ〉の意味で…」という解説も見たことがありますが、語源が分かってもその内容までは分かりません。ある辞書(立派な辞書です)に、〈おみおつけ〉が語源的に記述されていました。しかしこれは、実物を知る人むけの説明。それを知らない人には、チンプンカンプンでしょう。ですから実物を示すのがいちばん分かりやすいのですが、小規模公演は別として、日本でオペレッタの実物に出会うのはかなり困難です。その一因は、オペレッタの持つ〈大衆娯楽性〉であると思います。
現在は知りませんが、私がかよった(音楽を重視しているわけではないという意味で)普通の中学校・高等学校では、音楽の歴史といえばバッハ、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト…ヨーロッパ古典が主でした。それ以外は、運動会でシュトラウス等のワルツが流れるくらいです。大衆娯楽音楽は、学校で教えるまでもなく、巷で耳にして親しむであろうとの考えがあったのでしょう。もちろんこの考えは、大きくはまちがっていません。しかしそれが過剰になってしまうと、古典(とくにヨーロッパ古典)以外の音楽が、評価されにくくなるような気がします。
- 学校で音楽を教えるべきかという議論は別として、そもそも教室で教えられるのは、歴史的に議論が重ねられ評価の定まったことがら ― これを〈古典〉と称します ― しかありません。私は何十年か教員生活をしてきましたが、教えてよい事柄は、実はほんの少しであるとすら思っています。授業中に新説や自分の勉強の成果(?)を話すこともあっても、それは披露しただけ。少なくとも時代の十分な検証を経ないかぎり〈教室で教えるべき対象〉ではない、というのが私の考えです ― 無論、分野によって異なりますが。学生の貴重な時間を費やして、教師の独りよがりを押しつけるのは無責任。教えられるのは、あるいは教えてよいのは、先述の〈古典〉と勉強の方法(自分はこうやって失敗した…)ぐらいでしょう。教室ではそれだけでも手一杯、教員に残されたそれ以外の役目は学びを促すのみ。もっと学びたい人は、自分で学ぶほかありません。
オペレッタに話を戻します。このジャンルが分かりづらいのは、教えられない部分、説明がむずかしい部分が、あまりにも多く絡みついているからかもしれません。世紀末ウィーンの雰囲気、アメリカ生まれのさまざまなリズムに遭遇したときのヨーロッパの衝撃等々。これらは想像できても、現在の日本で実感するのはきわめて困難。変なたとえですが、翻訳された外国語の詩が分かりづらいのと、どこか共通する気がします。
オペレッタの持つ〈大衆娯楽性〉について、もう少し話をさせてください。産業革命を経験したヨーロッパでは、大都会に人が集まってきました。彼らは決してエリートではありません。日々の生活に疲れた彼らには、高尚な音楽に耳を傾ける余裕はなかった。たとえワーグナーを知らなくても、彼らは有名な一節くらいは口ずさめたかもしれません。しかしシェーンベルクを鼻歌にするのはかなりつらい。大衆が日々の苦労を吹き飛ばすのに必要なのは笑いであり、諷刺であり、ロマンチックな恋愛であり、簡単に口ずさめるしゃれたメロディーであり、カップルであればダンスホールで踊れるリズムであり、幸福な結末です ― 幸福を際立たせるために不幸が先行するのは許容範囲内、悲劇オペレッタもありますが例外的です。
そうなるとオペレッタは、音楽のみならずプロットも類型的で単純 ― 〈困難を乗り越えて相思の男女が結ばれる〉これだけです。ただし、音楽(メロディー)はすぐにおぼえられても、少なくとも私には、歌詞はほとんど分かりませんし、セリフ部分も同様です。もちろんこれは私の語学力不足に起因するのですが、満場が爆笑しているのに、ひとりキョトンとしているのは残念なかぎりです。それにもかかわらずプロットは(ある程度)理解できるのですから、オペレッタの女神は寛大です。
20世紀初めには、オペラ歌手がオペレッタを演じるのは「きわめて異例、ほぼいかがわしい」ことで、報道陣が押し寄せるほどのセンセーションであった、と本書にあります。歌舞伎の大名題が、緞帳芝居に出演したようなものでしょうか。オペレッタは、オペラと比較すると、〈劣った〉や〈いかがわしい〉と思われていたのが、ここから分かります。オペレッタはかつての〈大衆娯楽作品〉の王さま、ありていに言えば、通俗でときに低俗。ですから、その点ではるかにまさる映画が力を付けると、王座をただちに明け渡さざるをえなかった、と私は想像していますし、この本の著者もそれに賛成のようです。
そんなものしか作曲しなかったカールマーンなる人物の生涯の、どこがおもしろいのか。疑問をお持ちの諸姉諸兄もいらっしゃるでしょう。どのような形であれ、一つの分野を極めた人物は興味深いもの、としか言いようがありません。またカールマーンを通して見えてくる時代、当時のエンタメ業界の裏事情。これらは学校で教えてくれません。そして著者シュテファン・フライの語り口もおもしろい。それがどこまで伝えられるか自信はありませんが、しばらくお付き合いください。
もちろん著作権の問題がありますので、カールマーンが斯界で地歩を固めるまでをやや詳しく紹介し、それ以後は簡単にまとめるだけにします。
まずタイトルから
この伝記のタイトルを直訳すれば、『「涙ながらに笑う」 ― エメリヒ・カールマーン オペレッタ風伝記』とでもなりましょうか(以下、〈本書〉とか〈この本〉といいます)。単に記されたページは、本書のページ。タイトルの意味するところについては、おいおい考えましょう。
- ここでお断わりしなくてはならないのは、日本語の表記です。もちろん〈Emerich Kálmán〉を日本語でどのように音写しようと、原語の発音にはなりません。そこで私の好みを通させてください。ハンガリー語のáは長音です。そこで、Kálmánはよく見かける〈カールマン〉ではなくて、私は〈カールマーン〉と表記します。ここは私の個人的ブログですから、他に迷惑をかけることもないでしょう。
- 高校で世界史を習った方は、〈カールマン〉という名に覚えがあるかもしれません。8世紀初頭のフランク族の宮宰カールマン、八世紀半ばのフランク族王のカールマン、9世紀半ばの東フランク国王カールマン。これらはKarlmann(ドイツ語)/Carlomannus(ラテン語)と綴り、もちろん我らのカールマーンとは関係ありません。彼の名前については、後にまた取り上げます。
- 本書では、通常の書物における〈部〉とか〈章〉の代わりに〈幕〉等が用いられていますが、これだけで「オペレッタ風」としているわけではありません。カールマーンの三幕物には物語を推し進める〈力〉があり、それが本書にも(ある程度ですが)再現されます。それについては、当該箇所でお話ししましょう。
オペレッタの開始にならい、この伝記も序曲から始まる。序曲の前のページに、1889年から1908年までの5枚の写真。日本風にいえば、七五三の写真、中学高校大学の入学写真、そして仕事に油がのりだした頃の写真。彼はさまざまな機会に写真を撮れる階層に属していた。
序曲 ― 幸せの傍観者、オペレッタの憂鬱な巨匠
ベンチの下に買い物袋を置いてしょんぼりと座り、新聞を読むカールマーンの姿から序曲は始まる。そしてこの書物の本文最終ページに、服は立派でも生気の感じられないカールマーンの写真が掲載されており、ある意味、最初と最後が呼応する。それはさておき、そのしょんぼりと座る男が読んでいるのは、ウォール・ストリート・ジャーナル。
- ここで章タイトル〈幸せの傍観者、オペレッタの憂鬱な巨匠〉について簡単にお話しします。「傍観者」の原文はZaungast。この語はZaun「(外部からの侵入を防ぐ)柵」とGast「よそ者/客」の複合語で、〈柵の内側の(往々にして楽しい)営みに参加させてもらえない人物〉の意味。アイスランド・サガによく登場する人物、日本なら座頭市や寅さんのような人物で、実際にそばにいられると迷惑でしょうが、物語の主人公としては人気。また「オペレッタ」と訳しましたが、原文はleichte Muse「陽気な/軽妙な ミューズ(芸術の女神)」です。著者フライはなぜすなおにOperette「オペレッタ」としなかったのか。おそらく、それに続く「憂鬱な」の原文schwermütigのschwer「重い、重苦しい」とleichtを対照させているのでしょう。
- ウォール・ストリート・ジャーナルはご存じのとおり代表的経済新聞、彼が経済に明るいこと、実は金持ちであることを暗示しています。一見落魄した人物でありながら、実は株取引に長けている大金持ち。人々を楽しませる曲を次々と作りながら、作曲者本人は憂鬱 ― 仮面ライダー、バットマン、スーパーマンなど、ヒーローの内面・裏面は屈折し複雑なようです。「涙の中に笑いあり」著者フライは、主人公の心中を暗示します。
20世紀初頭をどう表現するか
先述のとおり、オペレッタは尊敬されるジャンルではない。著者フライはこれを認めておいて、アドルノを引用する。「まことのオルフェウスは、オペレッタの世界に移住した。」第1次大戦後の雰囲気を表わす最も優れた音楽作品の一つとして、フライはカールマーンの『女伯爵マリツァ』を挙げる。そしてこの時代を〈黄金時代〉より劣るような錯覚を与える〈白銀時代〉と称する通説に、異議を唱える。オペレッタの最盛期はむしろレハールとカールマーンの両巨匠が活躍したこの〈白銀時代〉なのだ(本書10ページ)。
- 20世紀初頭は、政治経済科学芸術等々あらゆる面でヨーロッパが頂点に達した時代、そして大戦を通してそれに疑問が呈され始める時代。その時代表現のために、クラシック音楽は先鋭度を増す方向に進みます。しかしそこで生まれたのは、音楽エリートならともかく、庶民の心に楽しく響く音楽ではありません。
- レハールは、カールマーンより(日本風に言えば)干支で1回り上、ドイツ人を両親としてハンガリーで生まれました。カールマーンの活躍はウィーン中心ですが、レハールはチェコやスロバキアとも関係があり、ウィーンのみならずベルリンとのつながりがありました。彼は常にカールマーンの先を歩むライバルです。両者の関係については、これからも数回出てくるでしょう。
カールマーンとユダヤ人たち
カールマーン自身がユダヤ人であるが、彼を支えたのもユダヤ人たち。演劇的センスもあったカールマーンには、ユダヤ人の優れた台本作家がいた。ユダヤ人がオペレッタに向いている理由を、フライはある人物の口を借りて述べる(12ページ)。
- カールマーンの優れた演劇的センスが優れた台本作家を周囲に呼び集めた、と考えるべきでしょう。ちなみにカールマーンの妻もユダヤ人ですが、彼女は(私のような凡人から眺めると)かなりユニークな人物で、自伝をいくつか書いているとのことです(私は未読)。彼女の活躍(?)については、後半に述べます。
- 私には〈台本〉と〈脚本〉、〈台本作家〉と〈脚本家〉の区別がピンときませんので、このブログでは〈台本〉と〈台本作家〉で通させてください。
第1幕 楽園追放 ― カールマーンの少年時代
カールマーン50歳の誕生日に、ある作家が彼の伝記を書くことになったが、その際、本人作成の回想メモが伝記作家に渡された。第1幕はそのメモからの引用で始まる。「子どもごころの悲しみで云々…。」(15ページ)
- カールマーンにまつわる伝説と、この回想メモ(もちろん私は未読)は妙に一致するそうです。それだからこそメモの内容は怪しい、とフライは考えているらしい。
作曲家は、ハンガリーの湖畔の町シオーフォクで、1882年10月28日に誕生。「コプシュタイン・イムレ」が生まれたときの名前である。混乱期があったため確かな記録は残っていないが、フライの現地調査によると、コプシュタイン家は何人かのラビを生んだ家系。父親カーロリ(ドイツ語ではカール)・コプシュタインは穀物商。母親パウラはクロアチアのヴァラジュディーン出身。音楽的素養があり、賢くユーモアに富んでいた。コプシュタイン家では、ハンガリー語とドイツ語を使っていた。
- 母の故郷ヴァラジュディーンは、息子のオペレッタで一躍名が知られるようになりました。ただしネットで見るかぎり、ハンガリーでの公演では〈ヴァラジュディーン〉を〈コロジュヴァール〉に置き換えることが多い気がします。この町は現在ルーマニア領。何か意図があるのかもしれません ― 領土問題が微妙な地域です。
- 上述の〈アウスグライヒ(二重君主国)〉体制下では、ドイツ語とハンガリー語の両方を使えないと、とりわけ商人としての活動範囲はかなり狭められたでしょうね。
早熟な才能
エメリヒ・カールマーンになる前、イムレ少年の時から、彼は音楽的才能に恵まれていた。4歳で『ハンガリー狂詩曲第二番』を全部歌って大人たちを驚かせたのは有名なエピソード。6歳になると近くの劇場に出入りして、1シーズンのレパートリーをすっかりおぼえてしまった。ところで同時期に生涯のトラウマとなる体験をする。5歳のイムレは最初のダンスパーティで、パートナーと共に転んでしまった。彼は生涯に多くのダンス曲を作ったが、自分は決して踊らなかったという(19ページ)。
- ダンスで転ぶエピソードで、私はトーマス・マンの『トーニオ・クレーガー』を思い出しました。トーニオもイムレも〈幸せの傍観者〉ですし、父親が穀物商であるのも共通。もちろん恥をかくのが世に認められる条件ではなくて、世に認められる人は恥ずかしい体験をバネにして、自らを伸ばすのでしょうね。
ユダヤ人ドイツ語学校で成績優秀な彼は、家族と別れて首都ブダペストの福音書派ギムナジウム(大学進学を目指す中等教育校)に入学。ここでコプシュタイン・イムレは、エメリヒ・カールマーンと名のることになった。
- ハンガリーでは日本と同じく人名は、〈姓→名〉の順に記すのは周知のとおり。したがって姓が〈コプシュタイン〉、名が〈イムレ〉です。首都ブダペストでは、おそらく前に述べた〈同化〉と〈アウスグライヒ〉の影響があったのでしょう。ハンガリー語〈イムレ〉はドイツ語〈エメリヒ〉に相当しますから、名の方は理解できます。フライの言うとおり、〈コプシュタイン〉はいかにもユダヤ人風ですから替えたのでしょうが、なぜ姓として〈カールマーン〉を選んだのか、その理由は記されていません。
- ただし、『ジプシー男爵』(ヨハン・シュトラウス)登場の養豚業者が〈カールマーン・ジュパーンKálmán Zsupán〉であること、この名前を『女伯爵マリツァ』(カールマーンの代表作)の登場人物(共に喜劇的人物)が持つことは、記憶しておくべきでしょう。もちろん当時のカールマーンに、自分が後にオペレッタ作曲家になるという予感は無かったと思いますが。
- 歴史に〈カールマーン〉は登場します。12世紀初頭、ハンガリー王国の基礎固めのころ、カールマーン王(なかなかのインテリ)がいました。〈カールマーン〉はドイツ語では〈コーロマンKoloman〉。11世紀初めにウィーンのそばで殺された、アイルランド出身のパレスチナ巡礼者Coloman(k=c)がいて、家畜の病気に御利益があるそうです。彼に捧げられた日は10月13日ですが、我らのカールマーンの誕生日とは微妙にずれます。これ以外にも、探せばいろいろ出てくるでしょう…
楽園追放
エメリヒ少年を父親の破産という試練が待っていた。家計を助けるつらい仕事。これらが少年の心に厭世観を生み後に彼の音楽に影響を与えた、とフライは考る。
- カールマーンはあるエピソードを用いて、破産が少年の自分に与えた衝撃を劇的に語りますが、それはできすぎの感があり、フライは疑問をおぼえます(私も同感)。フライは伝記作家として、カールマーンの演劇的・文学的才能を指摘(21/22ページ)。
働く一方で、カールマーンはギャンブルに手を染めたりするが、『ヴァルキューレ』を見て過激に感動、ベルリオーズを聞いて大いに感動。自堕落な生活を送る彼を救うのは音楽であり、音楽はあこがれの対象となる。シューマンの論文を読み、ピアニストになろうと自己流で猛練習。しかし指を痛めてピアニストの夢は断念、作曲の道に進もうと決心する。
- 〈多感な〉少年が心を入れ替えて、本来の自分を発見する感動的な箇所です ― 一種の美談。しかし伝記作家は自伝や本人の回想録を鵜呑みにしてはいけない、とフライは警告したいようです。指を痛めたのは事実で、治療を受けました。しかしそこでカールマーンは、本格的な訓練を受けたピアニストの卵に出会い、ピアニストの道を断念したらしい。フライの想像ですが、断念の理由として、心酔していたシューマンのエピソードを借りてきたのではないか、というのです(35ページ)。この想像には説得力がありそうです。
学業優秀なカールマーンはギムナジウムを飛び級で卒業、大学では法学を学んだが博士にはならなかった。今や音楽が彼の主たる関心事である。午後は王立音楽院で、遅れを取り返すべく熱心に学んだ。作曲法の師はハンス・ケスラー。同門にはコダーイやバルトーク、シルマイやドホナーニもいた。カールマーンはここで徹底的に鍛えられる。
- 当時の市民階級が大学に行く場合、法学を学ぶのが普通です。カールマーンが音楽院に入学したとき、仲間はすでに古典音楽を数年学んでいました。猛勉強が必要なわけです。ケスラー先生は、ドイツ古典を中心に作曲技術を教えたようで、きわめて優秀な教師であったことは、弟子たちの顔ぶれを見れば分かります。ところが、ハンガリー民族音楽に興味を抱くコダーイたちは反発。これはコダーイたちに無理があります。前にお話ししたとおり、教室で(教師が責任を持って)教えられることがらには限りがあるのですから。
- カールマーンは音楽院の学生としても貧乏でした。そこで作曲のアルバイトをします。彼の経済的センスが光るエピソードが本書29ページに。
カールマーンが自作と認める最初の曲(歌曲)は残念ながら失われている。作曲クラスの発表会でシルマイとバルトークは注目を浴びるが、我らの主人公はそれほどでもなかった。むしろここでは、〈公衆の前に出る〉ことに対する彼の嫌悪感が記されている。そして彼はしばらく師のもとにとどまる。ヤコビ、コダーイ、バルトーク(以前から親交あり)との交流があったが、音楽面では彼らとの間に一線を引いていた。カールマーンの卒業制作『サトゥルナリア』は高い評価を受ける。
- 著者フライが興味を持つのが、『サトゥルナリア』の演奏日1904年2月29日です。これは〈うるう年〉の〈うるう日〉であり、以後カールマーンは〈うるう〉にこだわります(31ページ)。〈迷信深い〉のかもしれませんが、オペレッタの興行が当たるか当たらないかは、プロの作家の死活問題。迷信深くなるのも当然でしょう。
音楽評論家カールマーン
カールマーンは、指揮者ニキシュにも『サトゥルナリア』を評価されるが、まずは新聞社「ペシュト日刊新聞Pesti Napló」に入社し4年間過ごす。彼のキャリアの始まりは、音楽ジャーナリスト・評論家であった。同新聞は草創期の活気に溢れ、優秀な若者が集まっていた。彼はもう1人のカールマーンやモルナール(『リリオム』などで有名)たちと知り合う。この期間はヨーロッパ音楽界の実り多い年月でもあった。
- いまだカールマーンは小シューマンであり、真のカールマーンではありません。しかし修業時代を送る若者には、それが良かったのかもしれない。現在でもしばしば演奏される名匠の傑作(ワーグナー、プッチーニ、R.シュトラウス等々)のブダペスト初演、そして彼の学友コダーイやバルトークたちがもたらす新しい息吹。カールマーンは評論家として、多くの作品を自分の目で見、耳で聞いて評価できたのですから。現在の私たちの目から見て、その評価が正しいか誤りかは別の話。そして文字を書く修業は、後の台本作家たちとの付き合いにも役立ったはずです。
- 〈もう1人のカールマーン〉は経済担当。後に我らの主人公〈音楽の〉カールマーンは株式売買で財をなします。主人公の利殖の才は、この時代の付き合いに由来するのでは?この段階(34ページ)で〈経済の〉カールマーンに言及しておくのは、フライが仕掛けた伏線でしょう。利殖については本書第3幕に登場しますが、今のカールマーンは、自分に備わったもう一つの才能に気付いていません。
- カールマーンの金もうけの才は、〈ユダヤ人〉と結びつけて論じられるかもしれません。しかしその議論は根拠薄弱です。記述のとおり、ユダヤ人は差別の結果、伝統的に金融関係の仕事をさせられてきました。また圧倒的多数のユダヤ人が貧しかったという事実、ユダヤ人迫害の長い歴史の中で金銭しか頼れなかった等々、金もうけは、才能というより生き延びる手段でしょう。ツヴァイクの『昨日の世界』(みすずライブラリーなら、特に28~31ページ)もご覧ください。
カールマーンは評論のかたわら作曲にも取り組む。そうこうするうち、芸術歌曲に別れを告げ、〈歌芝居Singspiel〉を作曲した。ただしこの歌芝居への転向に際しての、カールマーンの芝居がかったポーズをフライは指摘する。(41ページ)
- このへんからカールマーンは本領を発揮し始めます。しかしここに至るまで、私には分かりにくいところがありますので、そのあたりを指摘しておきます。まず、彼は当時の中級以上市民にのみ可能な、エリート教育を受けています。ただし当時は有料のはず。父親の破産の影響はどの程度であったのか、フライも疑問があるようです(35ページ)。カールマーンの学んだギムナジウムは、日本でいえば旧制中学と旧制高校を合わせたような学校です(と申す私も〈旧制〉を経験していません)。ギムナジウムを卒業すると、大学で学ぶ資格を得ます。ただし当時は大学も有料であったはず。大学に卒業という制度は無く、ふさわしいと思う先生のところで、必要あると思うだけ学びます。資格を取りたい学生は、それなりの勉強をして準備すればよろしい。音楽院の制度は分かりませんが、似たようなものでしょう。ですから、大学へ行きながら音楽院に通い、新聞社で記事を書きながら作曲するのも、能力さえあれば可能です。ただしこれらの学校の学費はどう工面したのでしょうか。アルバイトや新聞社の給与でまかなえたのか疑問です。
- 実は〈歌芝居〉が何であるか、私には分かりません。モーツァルトの『魔笛』も〈歌芝居Singspiel〉と銘打っていますが、天才の生んだ奇跡的作品なのでしょうね。20世紀初頭のブダペストで(もちろん他の都市でも)、『魔笛』レベルの作品が作曲され演じられていたとは考えられません。
1896年の建国千年紀以来、愛国的な歌芝居が流行し、カールマーンはその作曲にかかわって好評であった。彼は音楽院やブダペスト市から名誉ある賞を受けた。
- マジャル人がカルパチア盆地を征服したのが895年 ― ただし1896年に千年紀を祝うために、895年を征服の年に設定したという説もあります。他のヨーロッパ大都市に比すと地味ですが、ブダペストにも世紀末文化が花開きました。
- カールマーン作曲の歌芝居のスコアは残っていないそうですが、そこからのいくつかの歌が1907年出版の『歌曲集』に収められている、とのことです(私は確認していません)。
- カールマーンが公式に受賞するのは、これが最後です。この部分を著者フライは、印象的な1文「以後彼を評価できるのは聴衆のみ」で締めくくります(44ページ)。オペレッタという大衆娯楽ジャンルに撤したプロの作曲家に対する、最高の賛辞でしょう。
カールマーン世に出る
カールマーンは歌芝居で賞賛されていても、それでは正しい実力は測れない。ところが1907年、先述の『歌曲集』出版の直後、あるクープレCoupletを作曲し、これにより彼は掛け値のない真の実力で賞賛を得た。そして巧みに自分を売り込むカールマーンらしいエピソード(44ページ)。
- ハンガリー王国千年紀のお祭り気分の中では、どのような歌芝居でも、内容が愛国的でありさえすれば、少々の傷は大目に見られたかもしれません。ところがこのクープレはちがいます。原題Én Vagyoka Fedák Sári szobalánya、フライのドイツ語訳はIch bin das Stubenkätzchen von Fedák Sáriです。私に分からないのはszobalányaの訳語です。末尾の-aを取り去ったszobalányは今岡編著『ハンガリー語辞典』には「小間使い、上女中…」とあり、フライの訳語とはズレがあります(ムキになるほどのこともありませんが)。この場合の〈クープレ〉とは、〈リフレインを伴った戯れ歌、諷刺歌、小唄〉ぐらいでしょう。ちなみにこの曲はネット上にあります。
かつての音楽院の学友に誘われ、カールマーンは劇場関係者たちのグループに入り、「オペレッタを地で行く」楽しい生活を送る。ただし〈幸せの傍観者〉である作曲家は、陽気な仲間の中で少々浮いていたようである。そこで出会った台本作家のバコニに、カールマーンは軍隊を題材にしたオペレッタを提案するが、彼は首を縦に振らない。それなら、と作曲家は…
- 友人の軍隊時代の思い出話として、野営でたき火を囲んで語り合う(要するにキャンプファイアー)上官と兵士たちの話をします。バコニは心を奪われ、カールマーンのブレークスルー的作品Tatárjárás『タタール人襲来』(ウィーンで改題され『秋季演習』)が誕生しました。この場面は第1幕フィナーレに再現されます。帰営ラッパを背景に思い出を語る印象深いシーンです。
- 私は本作Tatárjárásを辞書に従って和訳しましたが、なぜ〈タタール人〉なのか分かりません。著者フライも教えてくれません。〈蒙古襲来〉のようなものでしょうか。私もハンガリー語を習得すれば、いろいろ悩む必要なないのですが ― 何回も挫折しました。ちなみに1241年、ハンガリー軍は蒙古軍に完敗しています。
- Bakonyiは[バコニ]と音写させてください。[ボコニュイ]がハンガリー語原音に近いかもしれません。しかし正確さにこだわると、よけいな混乱が生じる恐れがあります。私のお話のレベルでは、ある程度の妥協も必要でしょう。
カールマーンは劇場を探し、監督にオペレッタの概要を説明して契約成立。彼が音楽、バコニはプロットと対話部分、アリアの歌詞は別人が受け持ち、大急ぎで(4ヶ月間)作品を完成させた。初日(ブダペスト、1908年2月22日)から大好評、大成功であった。
- ワーグナーのように、何もかもすべて(劇場まで)自作するケースは例外でしょうね。1つの作品のアイディアが生まれ、台本が作られ、試行錯誤の末にスコア完成、そこから上演までがさらに大変。オペレッタに限らず、演劇上演には手間がかかることを教えてもらいました(もちろん知らなかったのは私の責任)。逆に考えると、ワーグナーはその大変さをよく知っていたからこそ、すべてを自作したのでしょう。フライは、迷信深いカールマーンやへそを曲げる出演者などのエピソードを、手際よくまとめています(49ページ以下)。
- オペレッタ上演準備中も、カールマーンは新聞の音楽欄担当でコンサート評を書いています。フライは、この時期のカールマーンの手になるコンサート評を紹介します。それはカルーゾのブダペスト客演失敗の記事。そこでカールマーンは、高価な入場料に触れます。人は芸術的感動のみを求めるのではない、費用対効果の観点も忘れてはいけない。カールマーンの現実感覚を適切に表わすエピソード(50/51ページ) ― 伝記作家フライの腕の見せ所です。
- 本作の音楽について、カールマーンのことばを引用しつつ、チャイコフスキーの影響が指摘されます。女主人公のワルツの前奏が、「手紙のアリア」を想起させるというのですが(55/56ページ)、それがどのようなものか、私に述べる資格はありません。
ウィーン進出
カールマーンの出世作は、ちょうどそのときブダペストに来ていたアン・デア・ウィーン劇場監督のカルツァグと、オペレッタ作曲家レーオ・ファルの目に触れた。カルツァグはウィーンでの上演権を手に入れ、上演準備のためカールマーンもウィーンに行く。オペレッタの本場でも、『秋季演習』と名を変えた本作は大成功であった(初演:アン・デア・ウィーン劇場、1909年1月22日)。
- ブダペストで今まで働いていた新聞社を辞めるときの騒動。この時点でカールマーンは、自分のライバルをレハールと決めていたようです。それにしても、カールマーンもフライも、ゴシップを語るのが上手です(60ページ)。
- たとえ上演されるとしても、劇場には上演を待っている作品が山ほどあり、いつカールマーンの番になるか分かりません(評判によっては、続演や打ち切りもあります)。待つ身のつらさを、フライはゴシップを交えながら(60ページ)、的確に表現します。
- ハンガリー語の原作『タタール人襲来』からドイツ語の『秋季演習』になるためには、翻訳が必要です。音楽は本場ですから何とかなりました。そして役者。とりわけ喜劇方面で、すばらしい役者にカールマーンは恵まれました。彼は身振りだけで聴衆を抱腹絶倒させるほどの芸達者でした。「爆笑の大波で、そもそも歌もセリフも聞き取れなかった」(63/64ページ)そうです。
オペレッタは大成功であったが、成功が過ぎたらしい。聴衆の熱狂にもかかわらず、ウィーンの同業者や批評家の反応は嫉妬あるいは冷淡。軍が題材なので、当局も神経をとがらす。カールマーンは落ち込み、続演なんと300回を重ねた記念パーティの席上でも、作曲家は浮かない顔をしていた(65ページ)。「台本は逸品、音楽はクズ」(65ページ)カールマーンがふと耳にした劇場関係者のことばである。同業者や批評家たちの反応はともかく、これは作曲者の心に深い傷を残した。
- このことばは、オペレッタ界の押しも押されぬ重鎮となっても、トラウマとなって彼を苦しめました。しかしこれが、傑作群を生み出す強力な推進力となったのは疑いを容れません。ご本人には申しわけありませんが、私たちが名曲に出会えたのは、作曲家が侮辱されたおかげです。
新しい方向
1909年にカールマーンを待ち受けたウィーンを、著者フライは「席が埋まった」状況と名付ける(66ページ)。多くの才能が帝国首都で妍(ケン)を競っており、カールマーンはそこに割り込む必要があった。ここでフライは興味深い指摘を行なう。この時期のオペレッタ傑作輩出により、娯楽音楽U-Musikと芸術音楽E-Musikが完全に袂を分かった、というのである(66ページ)。オペレッタに次々とモダンが持ち込まれ、国際的競争力をつけるために地域性が犠牲とされる。前出のカルツァグはこの時期のモダンなオペレッタを「新しいジャンル」と名付ける。さらにフライは続ける。オペレッタは20世紀初頭には死にかかっていたが、この時期に完全に息を吹き返し、ウィーンからの輸出品となった。
- 1905年に、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』とレハールの『陽気な未亡人(メリー・ウィドー)』が初演されたことをフライは指摘します(66/67ページ)。当時の音楽劇ファンは、芸術かあるいは娯楽か、信仰告白を迫られたような気分だったでしょうね。〈生首が欲しくて踊る娘〉と〈金持ちの後家さん〉のどちら選ぶか?もちろん私には簡単な選択ですが。
- 『秋季演習』の国際的反響は、当初ウィーンでカールマーンが耳にした「音楽はクズ」とは違いました。アメリカでのタイトルは『陽気な軽騎兵』。ただし、喜劇的部分は受けたものの、作品のキモとなる主人公(土地を手放さざるを得なくなったハンガリーの中小地主=ジェントリ)の苦悩は、ハンガリー的すぎたのでしょうか、理解されなかったようです。世界的ヒットを狙うためには、無国籍的にならざるを得ません。
この時期、オペレッタは人々の生活に重なる。主人公は周囲にいる等身大の人間である。さらにオペレッタは、当時の商業主義と結びつく(70ページ以降)。
- 主人公等身大化の傾向は、パリのオッフェンバクの世界が典型的です。そこからウィーンに広まったのでしょう。ワーグナーの神々は世界を支配しその没落と運命を共にしますが、オッフェンバクの神々は評判を気にしたり、浮気したり、俗事にかまけて崇高さの微塵もありません。また『陽気な未亡人』の主人公は、愛する女性の前では口もきけないばかりか、(私の予想では)大戦後の大インフレ時代をまっとうに生きられないでしょう。『秋季演習』の主人公は酒乱の傾向すらあります。本書のこの辺(70ページ前後)の記述について、ぜひ歴史家あるいは音楽史家の高説を拝聴したいところです。菲才には何とも申し上げようがありません。しかしフライの分析は興味深い。それだけは記しておきましょう。
- 『ベーデカーに載っていないウィーン』と称する、部分的に(鴎外流に言えば)「けしからん」旅行案内があります ― 〈けしからん〉分だけ楽しいのですが。記載されているのは1920年代の事情ですが、そこにも、劇場とアパレル関連、宝飾品、靴等々の業界と劇場との関係が暴露されています。
カールマーンは処女作で大成功を収めたものの、続く2作は成功とは言えない。1作はソルフェリーノの戦い(1859年)を題材とした時代物の『帰還兵』、次の作はポルトガル王マヌエル2世退位(1910年)が題材の時事物『小さな王さま』である。
- ソルフェリーノの戦いはオーストリア側の敗北。戦場は凄惨で、赤十字社結成の契機の1つとなるほどでした。またロートの長編小説『ラデツキー行進曲』の発端場面でもあり、この部分以外にはいわゆる〈ヒーロー〉が登場しないこの小説は、時代を描いて間然するところがありません。オーストリア軍は、軍服も行進曲も素晴らしいのですが、勝利とは縁遠いようです。
- 『帰還兵』は、数奇な運命をたどります。母親が息子を取り違えるという無理な設定があるのですが ― 〈オレオレ詐欺〉の話ではありませんよ ― 第1次大戦のおかげもあってさまざまなバージョンが作られ、それに応じてタイトルも替わりました。別バージョンは第1次大戦中、なんと敵国ロンドンやニューヨークで大成功。ただし著作権料の取り立てには、だいぶ苦労したようです(108ページ)。
- 『小さな王さま』のその後の運命は、『帰還兵』と比べると地味です。バラされていくつかの他作品(『皇后ヨゼフィーネ』等)の一部となりました。
第1幕フィナーレ
第1幕フィナーレは、大スターのトロイマン(『小さな王さま』の主役でもあった)の、ウィーンオペレッタ界追放から始まる。そこで、このトロイマンの影へと追いやられていた旧世代のスター、ジラルディが再び存在感を増す。実は『小さな王さま』と並行して、カールマーンは別のオペレッタ『ジプシー楽士長』に取り組んでおり、初演ではジプシーのほうが王さまより6週間先んじた(初演:ヨハン・シュトラウス劇場、1912年10月11日)。ジラルディは老ジプシー楽士長を演じ、健在ぶりを示した。
- 2つの作品に同時に取り組んでいたというのが私には信じられませんが、初演日から考えると、そのように結論せざるをえません。カールマーンにとり『ジプシー楽士長』作曲は児戯に等しく、ひょっこり生まれたので、作曲過程は自分自身にも分からないという話が紹介されています(86ページ)。なるほど!でも、本当でしょうか ― 私は疑っています。カールマーンは、話をおもしろくする名人ではありませんか。
『ジプシー楽士長』は、ドイツ語台本(ユーリウス・ヴィルヘルムとフリッツ・グリューンバウム共作)が与えられた最初の作品である。そしてカールマーンの音楽が高く評価された作品でもある。
- 著者フライは、成功の原因理由をいくつか挙げています。1つは、台本を作ったグリューンバウムが言う〈現実のオペレッタへの取り込み〉です(87ページ)。ジプシーは、もはやレハール作品に登場するような神話的存在ではありません。若い世代のジプシーは学校で音楽を学ぶのです。次は、情熱的なハンガリー的要素と、しゃれたウィーン的要素の調和です(88ページ)。時代の波に乗り遅れたジプシーの老楽士長の嘆きがテーマなのですが、ポイントになる部分で印象的なワルツの調べが聞かれます。かつて私が××tubeで聞いたワルツもその1つです。
この作品はブダペスト公演で完成する。かつてカールマーンが彼女向けにクープレを書いたフェーダク・シャーリが、老楽士長の娘シャーリを演じる。作曲家は彼女のために、2重唱ダンス曲Hacacaを書いて旧曲と入れ替えた。これが大成功。作品全体に影響を及ぼして、主人公はむしろ彼女となった。アメリカでも好評で、そこにおける作品タイトルは『Sari』となったほどである。
- Hacacaの意味は、私には分かりません。あるハンガリー人が「あれには意味が無い」とどこかで発言したのを、聞いたような聞かなかったような。ご存じの方はぜひ教えてください。
- 再びハンガリー語の日本語音写問題が出てきました。Hacacaのcは、ドイツ語ならzで表わされる音のようです(参考Mozart[モーツァルト])。Sáriは[シャーリ]と音写しました ― ハンガリー語では文字sは[シュ]音を表わしますから。でも、アメリカでSariはどのように発音されたのでしょうね。
ハンガリーの田舎で育った娘シャーリの、劇中での地位が高まったことで、オペレッタのハンガリー的要素が強まった。前述のワルツに加えて趣味のよい笑いが備わり、カールマーンがカールマーンらしくなった。
- 以後シャーリのような素朴な村娘が、ドイツのエンターテイメントの定番となる、とフライは述べています。なるほど、映画『Ich denke oft an Piroschka私はピロシュカのことをしばしば思い出す』(1955年、日本で上映されたかは不明)のヒロインなどが典型でしょう。
- 著者フライは、もっとも有名なカールマーン評を本書93ページで挙げています。そこには「他のすべての作曲家たちが努力し探し回り…、しかし彼(=カールマーン)は夢の中でそれを見つける」とあります。白状しておきますが、「夢の中で」im Traumが私にはいまひとつ分かりにくい。「それと意識しなくても」ほどの意味でしょうか。
- 当時のベルリンでは、ひたすら聴衆の笑いを誘うオペレッタ等がはやっていたそうです。カールマーンはこれに対し、喜劇であってもSentiment「心情」(訳がむずかしい語、後述)が必要、と主張します(94ページ)。技巧に走りすぎたり、大都会の猥雑が表に出たり、露悪趣味にすらつながるオペレッタが少なくなかったのでしょう。彼が自分のことばを形にして示したのが、次の作品です。
『ジュジお嬢さん』(初演:1915年2月27日、ブダペスト喜劇劇場)は、カールマーンが手がける最後のハンガリー語台本となった。悲劇的なところがない明るいオペレッタである。大当たりであった。アメリカでは1916年9月に、『ミス・スプリングタイム』なるタイトルで上演され、これまた大成功であった。ただし、これに先立つ1915年11月17日には文句なしの大傑作『チャールダーシュの女王』が初演されていた。
- 世界大戦の最中(1914年7月~1918年11月)、銃後では新作オペレッタに陶然としていたのですね。クラウスの戯曲『人類最後の日々』(別箇所ですが、著者フライも引用)には、ウィーンの人々がどれほどオペレッタを愛していたか、日常生活にオペレッタが入り込んでいたかが分かりますが、クラウス自身はそれを苦々しく思っていたようです(ただしクラウスは、ありとあらゆる存在を苦々しく思っている人物)。
- 前線で兵隊が生死をかけて戦っているのに何をのんきな、とのお考えもあるでしょう。私は戦後に生まれで戦時中のようすを知らず、上の世代の話を聞くほかないのですが、日本の場合、いまに良くなると繰り返し言われている内に、じわじわと世の中が窮屈になっていったそうです。対中戦争で暗くなった世相が、対米開戦で展望が開けて明るくなった、と感じた人も少なくなかったと聞きました。このような時代には、戦意昂揚のためでしょうか、悲しい話は歓迎されず(もちろん悲惨な実情は伝えられず)、むしろ陽気な内容が歓迎されました。そして気付いたときには、戦争の悲惨が空襲という現実として目の前にあったのだそうです(中学生時代に聞いたある墨田区民の話)。
ただし『チャールダーシュの女王』(初演タイトルは『恋愛万歳Es lebe die Liebe』)は、周知のとおり、底抜けに明るい内容でもないし、ましてや戦意昂揚とはまったく関係ない。「あふれ出るハンガリー魂の奥底からカールマーンに語りかけ」る(97ページ)主人公、独自のキャラクターを持つジルヴァの物語である。
- 「…私が悲しいなんて、誰にも気付かれたくないの。私はそんな女なのよ。自分を抑えられるの。笑って笑って、最後まで笑って…」そこで彼女はワッと泣き伏す。この場面で〈涙の中に笑う〉ジルヴァの本質 ― カールマーン自身の本質でもあるはず ― が見事に明らかになっていることを、フライは指摘します(97ページ以降)。先述のSentimentの内容としては、このジルヴァこそカールマーンの考えた内容の具体化であると私は思います。もちろん台本上でジルヴァを創造したのは、作家のレーオ・シュタインとベーラ・イェンバハ。演者たちの力も無視できません。劇場経営者と観客も大切な要素です。しかし題材を音楽的に昇華させ、演者たちに説得的演技をさせ、人々を感動させたのは、やはりカールマーンの力です。
- 自分にのぼせ上がっている大貴族の息子エトヴィーンを、正気に戻そうとする踊り子ジルヴァ、エトヴィーンとの結婚が実現する…かに見えて現実を突きつけられて幻滅するジルヴァ、恋人と別れ仲間と共にアメリカに出発するジルヴァ。直前の狂騒がウソのようにガランとした演芸場。残されたのは、若者たちを温かく見守る心優しい遊蕩者フェーリのみ。『チャールダーシュの女王』の第1幕フィナーレはじつに見事です。そしてこのフィナーレの素晴らしさ(「ジルヴァの別れは、ある時代との別れとなる。かつてこれほど歴史とオペレッタが相互に浸透したことはない」101ページ)を述べて、フライのカールマーン伝第1幕フィナーレも終わります。
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| 第1幕フィナーレで、カールマーン作品の頂点の1つ(すなわちウィーン・オペレッタの最高傑作の1つ)が登場しました。本書の紹介はここまで、とします。この書物に何の権利も持たない私が内容のあまりに多くを語るのは、著作権侵害は措くにしても、仁義にもとります。けれどもここで止めてしまうのは中途半端。これ以降、私が興味を持った箇所を本書からつまみ食いしつつ、カールマーンの生涯をたどりましょう。 |
その後のカールマーン
第1幕フィナーレの盛り上がりの後は、カールマーンのもう1つの大傑作、ウィーン・オペレッタの衰退と最期、彼と2人の女性、亡命と晩年についてのお話になります。
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もちろん戦争(第1次世界大戦)の影響は皆無ではありません。オペレッタの劇場も閉鎖されていきます。ところがここに、オペレッタ申し子のような人物がいました。フーベルト・マリシュカ(歌手、演出家… 後にアン・デア・ウィーン劇場を任せられる)は、中途半端な作であった『帰還兵』を戦時オペレッタに仕立て直すほどの才人です(103/104ページ)。貴金属供出キャンペーンに用いられたようで、クラウスの『人類最後の日々』の1場面も紹介されます(102ページ)。本作品が敵方でより大きな成功を収めたのは、先述のとおり。
『チャールダーシュの女王』の完成
その一方でカールマーンは『恋愛万歳』に手を加え、『チャールダーシュの女王』として仕上げました。副登場人物までていねいに造形されたこの作品は、ウィーン人たちの心をつかんで大ヒット。ただしそこには、「世界がすっかり滅んだって…」(ジルヴァとエトヴィーンの2重唱)等の自暴自棄的傾向が含まれています。
それは措くとして、この曲にはカールマーンの敵であった評論家までが降参しました。「彼こそアウスグライヒ(=二重君主国)体制の申し子作曲家。片方の足をハンガリー音階に置き、もう片方の足をウィーンワルツの芽生える地に置く…」(カルパート)。本作品の音楽劇的特長は111ページ以降に詳しく論じられますが、私の手に負えないので省略。
ベルリンでも大ヒット。それには、演出のリヒャルト・シュルツと主演のフリツィ・マサーリの貢献がありました。このようにして、『チャールダーシュの女王』は現在見られるような形になっていきます。
『カーニヴァルの妖精』(初演:ヨハン・シュトラウス劇場、1917年9月21日)
『カーニヴァルの妖精』のメロディーが、なぜ『ジュジお嬢さん』に出てくるのか、私はかねてより不思議に思っていました。本作の台本作家さえ、似たような感想を持ったようです(120ページ)。その疑問はこの書物を読んで一気に氷解。何のことはない。カールマーンは新しい台本を得て、『ジュジお嬢さん』の音楽を使い、『カーニヴァルの妖精』ができたのです。この作品はベルリンの演出家リヒャルト・シュルツの協力で改訂され、その版がベルリンで1918年9月14日に初演されました。これも大成功でした。
第1次世界大戦は1918年11月に終わりましたが、もちろん耐乏生活はそれ以前から始まっています。戦中の食糧配給制度のもとで〈肉無しデー〉が続き人々がうんざりしていたころ、このオペレッタは上演され大成功でした。この作は彼の大傑作と比較はできません。しかし欠乏の時代であったからこそ、カーニヴァルのような楽しい祭りの要素が受けたのだ、とフライは言いたそうです(125ページ)。それは、そうかもしれません。
第2幕
著者フライは第2幕開始にあたり、ウィーンに来たカールマーンが成功の階段に足を乗せたころにまで、時間をさかのぼります。
謎の女性パウラ
1909年あるいは1911年のカーニヴァルのとき ― 〈あるいは〉としたのは、どちらか分からないから ― カールマーンはある女性に出会います。名はパウラ・ドヴォルジャク、ウィーンに出たばかりのカールマーンの、17年間のパートナーです。彼女が作曲家に紹介されたときは本物のカールマーンとは信じなかったが、彼がピアノで『秋季演習』を弾いたのでやっと信じた、というエピソードが伝えられています(126ページ)。
出会いの時が不明なことからも見当が付くようにパウラは謎の女性で、フライの筆によれば「天才の影に隠れる人生」(129ページ)でした。カールマーンの母親の名も「パウラ」ですから、我らの作曲家にはマザコン的傾向があったのかもしれません。パウラは4歳年上、彼が地歩を固めつつあるとき献身的に作曲家を支え、傑作誕生に貢献します。カールマーンはケチ(大人のことばでは〈倹約家〉)で、つまらないことで彼女を責めたりしたようですが、これはむしろ〈甘え〉でしょう。彼女は謎の女性のまま病気で亡くなります。
『オランダ娘』(初演:ヨハン・シュトラウス劇場、1920年1月30日)
さて仕事の話。カールマーンは、シュタインとイェンバハの台本による最後の作品、『オランダ娘』に取り組みます。フライの筆は130ページ以降しばらくの間、さまざまな方向に進みます。バート・イシュルの別荘、父の重病と機知、兄ベーラの死により生じる憂鬱、宝くじに当たって大金を手に入れたが大インフレで無価値になった話、オランダがオペレッタの舞台として好まれた理由等々が矢継ぎ早に登場。しかし最も重要なのは、大戦後のオペレッタは、開戦以前の記憶を呼び起こす場となったという指摘です。
- 現実は同時進行して複線や複々線を進行しますが、語りは単線でしか進めませんから、フライの話があちこちに飛ぶのはやむをえません。ただしフライの筆致からはカールマーンがこの題材に取り組む必然性が、私には読み取れませんでした。それは白状しておきます。
このオペレッタについて、著者はワーグナーの『ローエングリーン』との類似を指摘した上で、音楽劇的特徴を挙げますが(137ページ以降)、専門的すぎて私には理解不能。ただし『オランダ娘』は結婚式に始まる昼の世界の物語である(138ページ)、と言われると、なるほどそのとおりと納得できます。たしかに、カールマーンのオペレッタには夜が似合いますよね。『チャールダーシュの女王』の主たる舞台は夜です。そこからの1節に「俺たちみんなチョウチョウFalterさ」とありますが、ほんとうはNachtfalter「夜の蝶」すなわち「蛾」のことでしょう。
ベルリンでも本作品の大成功は言うまでもありませんが、フライによって挙げられた1つのエピソード。ベルリン公演では、監督にでも強制されたのでしょうか、オペラ歌手クレール・ドゥークスClaire Duxが王女ユッタとして出演して、先に言及したとおり、センセーションを巻き起こしました。ただしそれが適役であったとは言いがたい(140ページ)。改定はされたものの、ロンドンでも大成功。〈敵国〉からやって来た戦後最初(1920年12月1日)のオペレッタでした(139ページ)。
〈ブラマー&グリューンヴァルト会社〉
ドイツ語でFirmaとは日本語で〈会社〉のことです。〈会社〉とは、「経済目的のために共同作業する組織」ほどの定義で十分でしょう。さてここに〈ブラマー&グリューンヴァルト会社〉が出現します(141ページ)。この会社の作った台本が、しばらくはカールマーンの作品を生み出していくのが、第2幕の大きな柱となります(ちなみに、彼らと共通の友人のグリューンフェルト、『ジプシー楽士長』の台本作家のグリューンバウム)。
『バヤデーレ(インドの舞姫)』(初演:カール劇場、1921年12月23日)
バレーにも『バヤデーレ』がありますが、こちらはオペレッタ作品。フランス女性が演じる偽のインドの舞姫に真のインドの王子が恋をするが、その恋は真か偽か。なおかつ劇中劇が劇と融合するという、R.シュトラウスが取り扱いそうなテーマですが、本作品はあくまでオペレッタ。
著者によると「偽りの感情、真の感情」のもつれあう内容は、オペレッタ銀の時代の特徴だそうです(145ページ以下)。オペレッタという営みに関する洞察、シミーの素晴らしさなども著者フライは指摘しますが(148ページ)、私は不勉強でフライ説の当否判断はできません。加えて私好みのオペレッタではないので、この辺で切り上げます。
カルツァグからマリシュカへ
1923年10月11日、カールマーンを世に出したカルツァグ(複数のオペレッタ劇場のDirektor監督/支配人?)が亡くなり、後を義理の息子マリシュカが継ぎました。彼は美男のテノールとして人気がありましたが、それ以外にも才人ぶりを発揮したのは先述のとおり。
『女伯爵マリツァ』(初演:アン・デア・ウィーン劇場、1924年2月28日)
- まずタイトルから。この作品Gräfin Marizaは、しばしばタイトルが『マリツァ伯爵夫人』あるいは『伯爵夫人マリツァ』となっています。これは変だとお考えになりませんか。〈夫人〉とは「夫のある女性」のことですから、〈マリツァ伯爵夫人〉とは「マリツァ伯爵の奥方」の意味。しかし実際は、伯爵であるマリツァという名の女性の物語です。もし〈マリツァ伯爵夫人〉が正しいとしたら、現イギリス国王は〈エリザベス女王〉ではなくて〈エリザベス王妃〉となるはず。ですから、私は『女伯爵マリツァ』といたします。
これほどの傑作になると伝説にことかきません。例えば主役マリシュカがヘソを曲げたおかげで、全体のキーになる場面であるタシロのチャールダーシュ「ジプシーよ、こっちに来い」ができた、とのことです ― ただしフライによると、マリシュカがバイオリンの腕前を舞台上で自慢したかっただけなのだそうですが(151~3ページ)。
- フライは本作における〈感情の入れ替わり〉に着目し、これを「冷温交互浴」と名付けます(153ページ)。「冷温交互浴」とは、温水浴と冷水浴を交互に繰り返す療法らしく、私は試したことはもちろんありません ― 温泉は出たり入ったりせず、静かに湯にひたっていればよいのです。変なことを考えつく人がいるものです。閑話休題!
この傑作に関して著者フライは多くを述べていますが、主役カップルと副主役カップルの2重唱曲数など(156ページ以降)、私の理解能力を超えた話です。しかしここで、フライが新たに仕掛けた本書の道しるべが見えますので、指摘しておきましょう。すでに本書では、書名にあった〈涙の中に笑いあり〉や「序曲」のタイトルにあった〈幸せの傍観者〉が、著者の置いた道しるべ(=キーワード)です。これらを追えば ― あくまでフライの思考の範囲内ですが ― カールマーンの性格や行動を読み解けるはず。しかし後に作曲家は、自分の想像力を越えた女性と結婚します。彼女を理解するためにフライが準備した概念が〈第3幕コメディアンDritter-Akt-Komiker〉です。
〈第3幕コメディアン〉とは何か?とりあえず作品中から実例を。『女伯爵マリツァ』の場合、その名はペニヂェク ― チェコ語らしいので、発音は勘弁してください。さてこの箇所でのフライのことばをまとめると、台本作家ブラマーとグリューンヴァルトはハンス・モーザーという役者を発見し、彼にぴったりの役であるペニヂェクを書きました。「これにより、シュトラウスの『コウモリ』におけるフロッシュ以来絶滅したと思われていた種族〈第3幕コメディアン〉が、新しい生命を吹き込まれた」(161ページ)というのです。
あらかじめ白状しておきますが、私はこの役を本書で初めて知りました。しかしフロッシュやペニヂェクから判断するかぎり、本筋とは関係なく第3幕に語り役Sprechrolleとして登場し、即興も含めて、さまざまに観客を楽しませる役 ― である、と私は想像しています。前にもお話ししました ― コメディアンが、時事問題を方言を交えて語って満場大爆笑。笑えない自分が〈幸せの傍観者〉である、と心から実感できる瞬間です。
- とにかくここで、〈第3幕コメディアン〉と役者〈ハンス・モーザー〉を皆さんの頭の片隅にでも置いていただけると、本書のこれ以後の展開が分かりやすくなると思います。この箇所には(163ページ以降)フライは力を入れていて、台本作家や作曲者や演者だけでなく、義理の父から劇場を受け継いだマリシュカの大奮闘、そして初演の1924年という時代の特徴も記されています。
オペレッタ製作法
『女伯爵マリツァ』は外国でも大好評(イギリス、フランスではほどほど)でした。これだけ評判になると、〈会社〉の台本作家たちとカールマーンの仕事ぶりが話題になるのは当然でしょう。それについてフライは、いくつかのヒントを述べています。まずヴィクトーア・レーオンの警句「…天井桟敷で受ける芝居は必ず1階席でも受ける。」台本作家のブラマーによる考察:「…初演から30回目までは、聴衆に訴えるのは本なのだ。それが気に入られて、やっと音楽の出番がある。」カールマーンは台本作家から題材のヒントを得てそこに沈潜、曲を作って台本作家に返し、それを受けて台本作家たちは…。ある段階からは演出家も加わったのでしょう。もちろんこれを繰り返して初演に至るのですが、それにもかかわらず、カールマーンは最初に音楽を書きました(175ページ)。
- もちろん初演で終わりにはなりません。カールマーンたちはさらに手を入れます。『女伯爵マリツァ』の場合、2月28日に初演でしたが、作業が完了したのは7月15日(178ページ)。他に仕事が無ければ、永遠に手を入れ続けたでしょうね。
『サーカスの王女』(初演:アン・デア・ウィーン劇場、1926年3月26日)
台本はブラマー&グリューンヴァルト会社、主演はもちろんマリシュカです。この作品では、自己剽窃とまでは行きませんが、前作のなぞりが指摘されます(181ページ)。第3幕にハンス・モーザーまで登場します。ただしフライに言わせれば、タシロ伯爵は時代に典型的ですが、サーカス芸人のミスターXは通俗小説的(180ページ)。特徴的なのは第1幕のサーカスと出番を待つ主人公の独白。これは「笑え、道化師」(レオンカヴァロ)の双子の兄弟です(182ページ)。そしてもちろん大成功。ブロードウェー進出のきっかけとなりました。
ブロードウェー進出
アメリカでの『サーカスの王女』は、オペレッタ部分よりも、第1幕のサーカス部分が強調されました。これとは別に、カールマーンも曲を提供する『Golden Dawn』 ― 〈黄金の夜明け〉あるいは〈金髪のドーン〉の可能性あり ― はある程度の成功を収め、映画化もされます。ただし人種偏見的内容なので、現在は上演されないでしょう。後に〈ケーリー・グラント〉として著名になる役者が劇場に出ていたことを、フライは教えてくれます(185ページ)。
オペレッタとレヴュー
ヨーロッパに話を戻します。この時代、レヴューがオペレッタをしのぐほどの人気を持ちます(186ページ)。この辺がカールマーンやマリシュカの才能の発揮どころで、『サーカスの王女』や次作『シカゴの女公爵』にはレヴューの要素が強くなります。ただしカールマーンは「一貫した内容展開durchgehende Handlung」が無いレヴューを好みません(187ページ)。本書には、この一貫性こそがオペレッタの弱点であるという当時の論者のことばが挙げられています(同上ページ)。ただし私には理解不能。
- Handlungを「内容展開」と訳しましたが、説明的で好きな訳語ではありません。「筋、ストーリー、プロット」などがふさわしいかもしれませんが、私には判定不能。
『シカゴの女公爵』(初演:アン・デア・ウィーン劇場、1928年4月5日)
先頃、日本にodolというロック・グループがあると知ってビックリしました。ドイツでOdol[オドール]といえば、うがい薬や歯磨きの有名メーカーですから。かつて私もお世話になったことがあります…というのはどうでもよいこと。フライによると、1927年のオドール歯周薬の宣伝文句に、「チャールストンでしょうか、それともワルツでしょうか。世界を揺るがす問題です」(188ページ)とあったそうです。すでに1920年代末、ワルツがアメリカ製のチャールストンにその地位を脅かされていた証拠です。
『シカゴの女公爵』は、第1次大戦後怒濤のように押し寄せたアメリカ音楽に対する、オペレッタの守護者カールマーンの反応と見るべきでしょう。カールマーンの間接的メッセージとしてフライが挙げているのは、「チャールストンとはアメリカのチャールダーシュにほかならない」(190ページ)。ただしオペレッタというジャンルが生産性を失うのは近い、と1928年にはカールマーン自身が告げている(188ページ)のは重要です。本作はアメリカでは不評でした。フライはある有益な助言を紹介します ― 「…アメリカのために、アメリカ人を発明するのはやめてくれ」(194ページ)。それはともかくこの時代、カールマーンはガーシュウィンとの交流等、アメリカの影響を強く受けたのは確かです。
第2幕フィナーレ オペレッタの黄昏
この部分は〈オペレッタの黄昏〉と名付けられています。代表的カールマーン・オペレッタの第2幕フィナーレは、深刻な破局であることを忘れてはなりません。本書の第2幕フィナーレは、オペレッタ劇場として著名なアン・デア・ウィーン劇場の他目的貸出しに始まります。また俳優ハンス・モーザーとの契約解除もありました ― 〈第3幕コメディアン〉がウィーンを去ったのです。この後にさまざまな困難が続きますが、もちろんウィーン・オペレッタの退潮はとうに始まっていました。それが顕著になっただけです。むしろカールマーンの周囲で起きた重要な変化は、作曲家とブラマー&グリューンヴァルト会社内の不和とマリシュカの間に生じた、三つ巴いや四つ巴のギクシャクです。ブラマーとグリューンヴァルトの最後の共同作業の結果が次の作品です。
- ギクシャクの顛末をフライは書いていますが(200~204ページ)、研究者以外には面倒でしょうから省略。ケンカをしている暇があるなら善後策を講じるべきなのに、それをしないで時機を失し、全部がおじゃんになる。落ち目のときにはよくあるパターンです。
『モンマルトルのスミレ』(初演:ヨハン・シュトラウス劇場、1930年3月21日)
好意的に迎えられましたが、カールマーン・オペレッタとしては中程度の成功。彼のオペレッタに、初めて歴史上の人物(本作では画家ドラクロア)が登場します。『ラ・ボエーム』のオペレッタ版のようなものですが、作品より興味深いのが、〈ブラマー&グリューンヴァルト会社〉の内輪もめです。作品より製作過程の方が興味深くなってはいけません。そして次作では台本作家は替えられます。
『悪魔の騎手』(初演:アン・デア・ウィーン劇場、1932年3月10日)
台本に縛られてカールマーンの新展開が阻害されているとの批判があった、とフライは指摘します(211ページ)。台本作家を替えたこと自体は良かったのかもしれませんが、新台本作家のスタイルは、カールマーンやマリシュカには不適合でした。歌詞は軽いのに音楽は荘重というちぐはぐ。フライの皮肉によると、全曲中でもっとも印象的な曲は純粋器楽曲である『女王の大パロータシュ』(212ページ)。マリシュカも身体のキレが悪くなっており、あるとき舞台で落馬して、〈悪魔〉ならぬ〈落馬〉の騎手、と自虐ギャグを発する始末(214ページ)。観客は拍手しましたが、失敗を同情されてはお終いです。
- 本作はウィーン会議を背景とした壮大華麗な歴史劇。ただし壮大華麗すぎて小劇場では上演不能。これでは印税(上演料)で稼ぐわけにはいきません。大きな舞台装置はむしろ映画向きです。
オペレッタと映画
『女伯爵マリツァ』や『サーカスの王女』などの成功作は、すでに無声映画になっていたそうです ―「オペレッタの無声映画とはどのようなシロモノか」とのご疑念はごもっとも。私も想像すらできません。やがてトーキー時代到来。オペレッタは続々と映画化されたそうで、これなら私にも分かります。とりわけゲオルク・ヤコービ監督『チャールダーシュの女王』(1934年)を、フライは絶賛します(戦後版は評価していません、後出)。ネットで断片的に見たことがありますが、たしかに「オペレッタの映画的表現の可能性を汲み尽くしている」(216ページ)と言えるでしょう。その他、『ロニー』なる映画のためにカールマーンは7曲作ったそうです。
「オペレッタの破産」
「オペレッタの破産」とはなんぞや?読んで字のごとし。ウィーン・オペレッタを取り巻く環境は、いよいよおかしくなってきます。1930年のベルリンでは、『チャールダーシュの女王』の公演すら失敗でした。そしてマリシュカの破産(1935年2月28日)です。これに関して、ウィーンのオペレッタ作家たちは寛大であったそうです。そして最も寛大であったのがカールマーン。彼の未回収金は60万シリング。当時の貨幣価値は分かりませんが、とにかく巨額(220ページ)。
ヴェーラ登場
カールマーンを長い間支えてきたパウラが、『シカゴの女公爵』初演の2ヶ月前、1928年2月3日に亡くなりました。オペレッタというジャンルが落ち目、台本作家たちとの軋轢、破産の余波など、カールマーンの仕事にはプラスの要素が少ない時代ですが、実生活では大きな変化がありました。カールマーンの結婚(1929年11月9日)です。
結婚相手ヴェーラは役者志願の貧しい娘で、〈パパ活〉スレスレの生活だったのでしょう。自己申告と事実の間に乖離が存在する人物がいます。ヴェーラがまさにそれで、乖離はかなり大きい。年齢は5歳若く申告、父親はロシア人貴族とのことですが、フライの調査によるとユダヤ商人。彼女はユダヤ人ですが、それに納得しないのはヴェーラ本人のみ(226ページ)。なにしろ自伝・回想録(私は未読)が3冊ある人物なので信用できません ― 事実が書かれていれば1冊で十分のはず!彼女のことばは疑ってかかる必要があります。ただし彼女の(おそらくホラ)話を借りて、フライは〈第3幕コメディアン〉(ここではウィーンの戸籍係)を登場させます。(225ページ)。
カールマーンのケチを尻目に、ヴェーラはオペレッタ王カールマーンの妻にふさわしい(と自分が信じている)あらゆる贅沢をはじめます。カールマーンはこの美貌の若妻の浪費ぶりに驚かされますが、本人が満足しているのですから、ソトの人間が口を挟むことではありません。彼らはHasenauerstr.29に住みます(1935年2月18日)。100年間変化がなければ、Google Mapで確認するかぎり、建物は小城館。掃除がたいへんだろうなあ!暖房費はどうなる?こんなことが心配になる人には住む資格がありません。
50才の誕生日(1932年10月)
誕生日を人生喜劇の連続回数にたとえれば、その回数は君のオペレッタの連続公演回数にとてもかなわない ― 演劇人マリシュカの面目躍如たる誕生会スピーチの一部です(237ページ)。1932年10月のカールマーン50歳記念パーティーには内外の多くの関係者が参加し、盛大に祝われ首相の表敬訪問すらありました。そしてこれが、ウィーンオペレッタ最後の大イベントになります。
- 祝賀気分の中で、前出『ベーデカーに載っていないウィーン』の著者ヒルシュフェルトは、新聞紙上にカールマーン批判 ― 優れた才能を大衆の反応獲得に用いている ― を公表します。この批判はカールマーンに突き刺さりました。彼の反応 ― 私は音楽を売ってはいません(239ページ)。
『皇后ヨゼフィーネ』(初演、チューリヒ1936年1月18日)
マリシュカの破産等々、オペレッタの退潮は目に見えてきた時代。流れはベナツキー流の簡素な音楽喜劇とレハール流のオペラ的大規模舞台の、2つに分かれていました(241ページ)。カールマーンは後者の流れに乗り『皇后ヨゼフィーネ』(ナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌがモデル)に取りかかります。ところがカールマーンの本領は、アクチャルな問題を見いだし、時代に合った方法で音楽化する(フレート・ヘラー)ところにあったはず(242ページ)。ところが本作は、『悪魔の騎手』以来の歴史絵巻、フライのことばを借りれば、「見る作品」(242ページ)です。そして音楽そのものもアクチャルではなく、かつて不評でお蔵入りしていた『小さな王さま』の音楽を持ってきて、それに『ゴールデン・ドーン』から2曲を加え、新曲は4曲のみでした。ヨーロッパ各国で独裁者出現時代、ナポレオンに人気があったそうですが、このような金のかかる公演はウィーンやドイツでは無理、初演はチューリヒでした。
ナチスの支配
ウィーン・オペレッタの退潮の中でカールマーンが苦闘していたころ、ドイツではヒトラーが首相になります(1933年1月30日)。これにより、ドイツにおけるウィーン・オペレッタは若干の例外(レハール等)を除き上演不能 ― 作曲家も台本作家もほとんどがユダヤ人だったからです。そして多くの関係者が、ドイツを逃れてウィーンにやって来ました(244ページ)。カールマーンはユダヤ人なので、彼のオペレッタはドイツでも上演禁止。『女伯爵マリツァ』の映画は許可されましたが作者名は出せないので、代わりに「同名のオペレッタによる」となりました(245ページ)。
オーストリア併合(1938年5月12日)とカールマーン一家の亡命
そしてウィーン・オペレッタの息の根を止める事態となります。オーストリアがナチス・ドイツに併合されたのです。カールマーンは逮捕され使用人たちは反乱を起こしますが、勇敢で賢い妻ヴェーラの機転でうまく収まりました(と彼女の回想録にあるそうです)。そして同年6月26日、カールマーン一家はウィーンを出ます。息子チャールズ(=カール)によると、カールマーンはレハール(妻がユダヤ人)にも亡命を勧めました。しかし総統お気に入りの作曲家レハールは亡命しません(247ページ)。ナチズムとの宥和(〈親和〉ではないでしょう)性ゆえに、戦後レハールは苦しむことになります。マリシュカはナチス党員になろうとしますが失敗。劇場は没収されましたが、おかげで負債もなくなりました(249ページ)。
カールマーン一家は「デラックス版」(247ページ)亡命生活ですが、一般的に亡命とは苦しいもの。しかし残留して虐殺されるよりはるかにマシです。多くの犠牲者の中には、グリューンバウム(『ジプシー楽士長』の台本作家、キャバレー芸人)やヒルシュフェルト(『ベーデカーに載っていないウィーン』)の名も見えます。
第3幕
ここから本書の第3幕。マリシュカの誕生日の誕生会スピーチのごとく、人生が喜劇であれば、ここからがカールマーンの人生喜劇第3幕。当然〈第3幕コメディアン〉登場、それを勤めるのは妻ヴェーラです。〈涙の中に笑いあり〉や〈幸せの傍観者〉を隠し味にしながら、この幕では彼女の活躍(怪演)も十分語られます。
しかしまず主役から。カールマーン一家はチューリヒからパリに移住、安全のため全員カトリックに改宗。そしてさらにアメリカ合衆国に渡ります(1940年3月28日)。ちなみに独仏休戦協定締結は1940年6月22日。
カールマーンの二つの仕事
在米生活(=亡命生活)開始につき、カールマーンは諸事万端倹約を宣言して(254ページ)さっそく仕事探し。ニューヨークからハリウッドに行き、再びニューヨークに戻り居を構えます。ここで本書の冒頭を思い出してください。あのカールマーンがこのカールマーン。しょぼくれた風体の老人、実は大富豪。やがて彼はパーク・アヴェニューの11室プラス使用人部屋3室の超高級マンションに引っ越します。
彼は株とオペレッタに従事していましたが、後者に関しては所期の成果が挙げられなかった、とするのが公平な見方であると思います。理由はいろいろあって、亡命者間の足の引っ張り合い、ニューヨークとウィーンの業界慣習の相違、不運等々、著者は多くの例を挙げて説明しています(270ページ以降)。『マリンカ』(〈マイアーリング事件〉のパスティーシュ、初演:1945年7月18日)は成功し、上演回数を重ねたでしょう。しかし私個人としては、カールマーンの時代は終わったのだ、と考えたくなります。というのは、アメリカ滞在の集大成『アリゾナ・レディー』からは、印象的な曲 ― これぞカールマーンだ!と思わせる曲 ― 情念のほとばしりが聞こえてこないからです(素人の感想!妄言多謝)。幻に終わった『ミス・アンダーグランド』をフライは惜しんでいますが、「逃した魚は大きい」ものです。
ところが音楽はうまく行かなくても、株取引では(相応の損もしているのですが)大成功。まさに〈涙の中に笑いあり〉を地で行きました。父親の破産以来、カールマーンは利殖に敏感で、亡命先では全世界の株の動向に目を配っていました。「貴殿は作曲家にしては相場に強いですね」と言われ、「小生は相場師にしては作曲に強いですよ」と応えたというゴシップさえ紹介されています(267ページ)。
〈タガ〉が外れたヴェーラ
夫はそれなりに仕事をしていますが、妻ヴェーラにとって亡命とは、スイス、パリ、ニューヨーク、ハリウッド訪問の物見遊山のようなものかもしれません(一時マヌカンとして働きますが)。
- まず退屈な夫とは離婚、自称外交官(実は香水販売員?)と結婚。ところがお相手には金がなく、飛行機事故で墜落死したとかでただちに前夫と復縁。その他、何人もの映画スターや有名人たちと浮名を流したとか。残念ながら記録は自著にのみ存在し、フライに言わせると、「詩と真実が重なった」状態です(279ページ)。このへんは〈幸せの傍観者〉たるカールマーンの面目躍如というところでしょうか。ただし有力者との交際を通して、夫の作品を売り込んだこともあったようです(同上ページ)。繰り返しますが、ほとんどがヴェーラの自己申告なので、ことの真偽は確認しようがありません(夫の資料は散逸に任せたが、自分関係の資料は「トランク単位」で保存。297ページ)。面白おかしく過ごした亡命生活ですが、家庭をかえりみずに遊び回ったらしい。副産物として、遺産相続時に子どもともめるという事態になりました。
亡命疲れ
亡命生活のストレスでしょうか。亡命者たちは外部のみならず、仲間うちで争いを始めます。そして病気や死に至る者も。カールマーンの人生オペレッタ第3幕は、ヨーロッパに残した2人の妹の死(ユダヤ人女性労働者の強制移動中)の知らせで終わります(282ページ)。
小終曲
ここからFinalettoと称する部分になります。私の知るかぎりでは「小フィナーレ」の意味ですが、本書先頭の〈序曲〉に対応させて〈小終曲〉としました。まちがったら許してください。
ライバルの死・ウィーン・オペレッタの死
戦争が終わって一段落した1948年10月24日、カールマーンの66歳の誕生日に、レハールが亡くなりました。亡命ユダヤ人のカールマーンと、ヒトラーのドイツに留まったレハールとは仲違いをしていましたが、後者重病の報にカールマーンは電報で見舞います。共通の友人によると、両巨匠は生前の和解に成功(289ページ)。年長のライバルの死は、カールマーンに大きな打撃を与えました。彼の死がウィーン・オペレッタの死と感じられたのです。
ウィーンにて喜ばれず
「預言者は己が郷にて喜ばるることなし。」カールマーンはもちろん預言者ではありませんが、ウィーンは第2の故郷です。ヨーロッパ・ツアーの途中、彼は1949年7月5日に正式にウィーンに迎え入れられました。ところがそこに待っていたのは、心ない非難(289/90ページ)。彼のオペレッタ上演について、悪意に満ちた中傷が広められたのです。彼の旧宅も、戦災孤児への寄付金すら非難の対象となりました。
- ウィーン市民は、自分をナチズムの犠牲者に仕立てようとしたがそれは不可能。そこで特に裕福になった帰還者を中傷した ― これがフライの説明の概要で、私にはよく理解できません(語学力不足のせいでしょう)。良心の呵責に苦しむ人は、苦しみを引き起こした人物を逆恨みするものです。カールマーンを見たウィーン市民は、自分を呵責する代わりに、カールマーンを逆恨みしたのでしょう(私の解釈)。卑しい心根ですが、それはウィーン人だけの専有物ではありません。
カールマーン・ルネサンス
戦後のヨーロッパにはカールマーン・ルネサンスが起こり、彼は満足でしたが、いったんニューヨークに戻ります。パリに逃げ出していたヴェーラは、卒中の夫を仏都に連れ出します。彼はそこで株式市況を気にしながら亡くなりました(1953年10月30日)。遺体は希望によりウィーンに葬られます。その後の遺産をめぐるヴェーラと子どもたちのゴタゴタ(先述)。
それよりも〈ルネサンス〉が重要です。ナチス支配下で禁止されていた作曲家の作品が一気に上演され、ルネサンスとなりました。しかしフライはこれを「偽りの輝き」の中でのルネサンスであると評します(298ページ)。例に挙げられるのが、戦後作られた映画『チャールダーシュの女王』と戦前のそれ(既出)との比較です。戦前の映画がいかに優れていたか。
本書は、シュトゥットガルト・オペラ座での『チャールダーシュの女王』300回記念(1950年8月29日)の描写で終わります。息子が幕間の音楽を指揮。幕が降りても聴衆は歓呼を続けます。こうなると作曲家は舞台に上がらざるをえません。マイクを渡されたカールマーン。「親愛なる皆さん ― (長い沈黙) ― 私の生涯で最高の晩です ― (長い沈黙) ― すべての皆さんに感謝します!」カールマーンは顔を上げられません。フライはウィーン・オペレッタ王の伝記を、デンマーク王子の最後のことばを借りて終わらせます ― 「後は音楽…」
本文の最後は、キャプション「時は過ぎた」のついた写真です。
おしまいに数言
門外漢が読んでもおもしろい伝記は、イギリスのものかと思っていました。しかし本書は、ありがたいことに例外に属するようです。ただし本書は、時系列にかならずしも従わずテーマ別にも論じているので(これはやむをえません)、ときどき混乱させられました ― 私の知力の低さが主原因ですが。
本書の特長の1つはその実証性です ― 学問が実証的なのは当然。しかしそれは決して単純かつ簡単ではありません。書簡や資料を読み解き、カールマーンを(間接的にでも)知る人から話を聞く。その積み重ねでこの本ができたのでしょう。その意味で、カールマーンについて論じる人には、本書が基礎文献の1つとなりえます。加えて、各作品についてその初演日等の基礎データが充実しています。
もちろんオペレッタ専門家でない私には、本書の真の価値は理解できません。しかし本書より優れた書物があるとも聞いておりません。著者シュテファン・フライStefan Frey(博士)は、オペレッタ研究を主たるテーマとして、現在ミュンヒェン大学に籍を置いているようです。またそれまでに、ドイツ語圏のいくつかの劇場で監督の経験もあります。多忙の中でこれだけの書物をまとめた知力と努力に脱帽。
本書を読んでみて、20世紀前半大都会に住むドイツやオーストリアの庶民は何を楽しみにしていたのか、ある程度私にも分かった気がしました。
